2017年10月18日 (水)

**始まり**

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次元移行(上昇)が本格的に加速し始めたのは2008年頃だろうと思います。

でも実際は今から80年ほど前に、その胎動は始まっていました。
時は1930年代後半。
まさに第二次世界大戦の前夜という頃ですね。

おそらくこの世界大戦自体なんらかの真実を隠すために仕掛けられた作為的な混乱だったと、今になればわかります。
当初資本主義の行き詰まり(世界恐慌を終わらせる目的)の解消を画策したのではないかと言われていますが、もう一つのシナリオが、この次元移行(上昇)の阻止だったかもしれません。

次元が移行するためには、人類の意識の向上(周波数を上げること)が必要不可欠ですが世界大戦という大いなる苦しみは、世界的に影響力を持つ先進国の人々に、ネガティビティを引き起こさせるには効果的だったはずです。
(影響力を持つという見方もあるでしょうが、近代文明国の人々は物質文明に偏っているから扇動しやすいとも取れます・・・)

やがて終戦を迎え、日本でも高度経済成長が始まり、人々の意識に「資本主義」意識を植え付ける方に舵を取ったのだろうと思います。
金銭的な欲は恐れや怒り、不安を同時に引き起こしますので、大戦という暴力行為でないネガティブ意識を人類に生み出させようとしたのかもしれません。

表面上ある側の意図通り世界は周波数をあげるどころか、物欲と国家主義の台頭により個別の閉塞社会と資本優先の世界が作り上げられてきたかに見えました。

しかし、それから80年。
宇宙の壮大なスケジュールである次元移行の加速期に入りました。
この始まりの段階で、世界も地球も、そして人類も皆、そのスケジュール遂行のためあらゆる道を模索してゆくことになりました。

例えばリーマンショック。
これは世界経済に大きな打撃を与えるとみられたのですが、世界財界と金融施策が、なりふり構わず無理矢理金融崩壊を阻止し、この時点で経済崩壊のスケジュールは変更になったと見ていいかと思います。

おそらく、その時点ではまだ人々の中に
「自分ではない誰かが自分の願いを叶えてくれる、もしくは代行して欲しいと言う依存意識」
が根強く、自分は変化しないで外の世界に変化を求める意識が強かったことでしょう。

また、その時点で本当に経済崩壊が起こってしまえば、その崩壊によりさらなる恐怖と怒り、絶望を人類が生み出してしまいかねない進化レベルだったと見ることもでき、天の采配として「崩壊劇という選択肢は保留」と判断したかもしれません。

では金融至上主義が継続してしまうのかといえば、昨今の国際経済の後退を見れば、それも変化し始めているようにも見えます。

金融崩壊は阻止されてしまいましたが、金融が持つ力は着実に後退し始めています。
ビットコインなど新しい通貨概念の発生やドルの基軸通貨からの後退。
ブロックチェーンテクノロジーによるインフラの変容やアマゾンを筆頭とするネット販売の拡大などなど・・

ただこれらが新しい次元でのマーケットを意味するかといえば、それも違うように思います。
次に来る新しい次元の金融やマーケットシステムにつながる「つなぎ」の役割を持ち、また既存のマーケットの強制的変化を促す役割を担っているようにも見えます。

また新しい意識や新しい価値観の胎動とテクノロジーの芽が摘まれたり潰されたりすることなく草の根の中から芽吹き始めています。

今私たちは未来に向け新しいエネルギー(周波数)に世界が変化する過渡期にあります。
変化というものは、産みの苦しみを避けては通れません。

そして既存の社会がある日一瞬のうちに入れ替わるというような夢の出来事ではなく、全てが崩壊と危険のギリギリのところで徐々に「変化」して行くことを地球は選びました。

報道に見る様々な危険啓蒙の裏に何らかの作為的行動や誘導があろうとなかろうと、各国政府や政権のありように不信があろうとなかろうと地球は行くべき未来に向け、しっかり進んでいるはずです。

それでも今、もしご自分がこの時期 ”停滞感” の様なものを感じたとしたら、それはチャンスかもしれません。
自分自身の内面進化を加速させておく重要な時期だからこその停滞感なのかもしれないからです。

人によっては既に大きな岐路に立っている方もいることでしょう。
また、今はまだそれほどの大きな動きを簡易ていない方もいるかもしれませんが「岐路」は未来を目指し進む者には、その都度必要な時に何度となくやってくることになる筈です。
おそらくこれが私たちが高次元を目指し進む道のありようなのでしょう。

今後も、その時々の自分の周波数に比例し、それに見合った様々な選択を迫られることになります。
でもその時、誰かが分かりやすく「どっちの道に進みますか?」なんてご親切な案内などは決してしてはくれません。

今体験している様々な事(楽しい、厳しいどちらでも)にしっかり目を向けて行けば、自分では気がつかないうちに行くべき道を自分のハイヤーセルフが進ませてくれます。
でもいつ自分がその岐路に立ち、どの道を選び進んでいるかの確信を持つ事はしばらく進んだ後になって気がつく事になるでしょう。

「全ては始まっています」









2017年10月15日 (日)

**RITUEL(リチュエル)パン屋さん**

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先日新宿の伊勢丹にパンを買いに行ったんですけど、いつも買っていたお店「デュヌ・ラルテ」
がなくなっていましたww
なんとも残念。

で、同じブースに新しいパン屋さんが入っていたので「どこが入ったのかな?」と覗いてみました。
そしたら北青山にあるRITUEL(リチュエル)のベーカリー「リチュエル ル グラン ドゥ ブレ」
が入っていました。

ここのパンはヴィエノワズリー(クロワッサンなどの、酵母発酵させたパン生地などを焼いた菓子パン)を扱ったパン屋さんで、おやつテイストのパンがわんさか)

画像の真ん中にあるクルクルのパン「エスカルゴ レザン」
このクルクルパンが一押しだそうで、甘さは自分としてはかなり控えめで、おやつと言うよりブランチにブルーチーズなんかと頂くとよろしいなと。

あとベーコンエピは「まあまあ」

細長いのはフィセル、家の人が一口食べて「あれ?これ辛い?あっ辛い辛い」て言うので食べてみたら、どうもペッパーだけではなくてチリっぽい辛さで大人の味でございました。

お店を手がけているのは、クリストフ・ヴァスール。
パリの「デュ・パン・エ・デジデ(Du pain et Des Idées)」のオーナーだそうです。

私はヴィエノワズリータイプのパンが大好きなのでニッコニコざんすが、リチュエルのはどれもすっげえお高いパンなので、あんまり頻繁には買えませんねぇ。

ちなみに同じヴィエノワズリタイプなら「メゾンカイザーhttp://maisonkayser.co.jp/」のクイニーアマンとメープルデニッシュはお値打ちでナイスです。

こちらは新宿高島屋ね。

今日は普通のブログでござりましたぁ。








2017年10月13日 (金)

**ネガティブってなに?**

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ネガティブって外から自分に向けられる攻撃とか悪意のことではありません。
折り合いの悪い相手に不当な扱いをされたとか、上司からのパワハラや納得のいかない仕事のストレスとか、国家の横暴とか・・

そういうものは、突き詰めてみたら自分を成長させてくれる反面教師なわけで、ネガティブなどではないのですね。

でじゃあネガティブって?

それは個人的に自分の中から湧き上がる「感情」なのですね。

仮に相手が悪意を自分に向けたとしても、そうしたエネルギーを受けても意に介すこともなく、それすらも感じることなくいられればそれはネガティブなどではなく、
「えっ!なにそれ?」
程度のことで、自分の心が乱れることでもないのです。

でも、そのために「心を強くし、外からの攻撃や悪意に立ち向かえることのできる強固な自分となって行く」
ということは意味ないかも。

むしろそれは目には目をの意識とおんなじ、結局自分の中に攻撃に対応するディフェンスを築くということになってしまいます。
外からの攻撃に反応してしまうということは、自分の中にも気に入らない相手や物に対して攻撃心を持つ自分が存在するからかもしれません。

往往にして人は自分の中にあるそうしたネガティブを持っていることを認めたくないもの。
まさか自分がそんな嫌な部分を持っている、そんなはずないと最初から自分の中のそうしたネガティブ部分に自分からベールをかけ、表面に出てくることを避けたとしても、まぁ仕方ないかも。

真のネガティブって自分の中に生じる(元々持っている好ましくない)「感情」を言います。

進化って、こうした自分の中にあるドロドロとした部分を表に引き出し、たとえ人から眉をしかめらても、その自分を認めることから始まります。
そして、自分が嫌う部分が自分の中にあることに気がついてしまって
「そ、そんなぁ!!」
と愕然と膝を折ることから進化が始まるんですね、ちょっと厄介かもしれませんが(笑)

自分(嫌な自分)を知ることで、その自分であることを理屈抜きでやめたいと思うようになります。
だって知ってしまったら、そういう自分が嫌に決まってるのだから、そこから先に進んで行けるということになります。

私たちの進化は「穏やかで、にこやかで、平和で、嬉しい」ところにはなくって、自分の苦手とする悩みや悲しみに、逃げることなく向かうことによって進化して行くことになります。

でも、そんな自分を見てしまったとしても、その自分を「決して否定しないで、反省なんかも横に置いて」そのままの自分をしっかり受け止めることが一番にすべきこと。

ジャッジはしない、それが何より大切なところなのです。
だって、完璧な人間なんかこの次元にいるはずありません、だから人間やってるんですから。

ただ、苦しいという行為や体験自体が進化を促すのではありません。
その体験がもたらす「感情」に目を向けた時に始まるんですね。

真冬の滝行は苦行ですよね、じゃあ日常にある苦悩は?
それだって苦痛の一つ、滝行の辛さと自分に向かって来る試練。
どれほどの差があるのでしょう。

滝行は肉体にはとてもキツイことですけど苦悩は伴わないでしょう。
つまり「感情」と言う心の動きはそれほど大きいものではない筈。

それよりも日々の中で、信じる人に裏切られたり、亀裂が起こったり、攻撃されたり、生活やプライベートのシーンでのトラブルとか、そうした感情面でのキツさは、滝行の感情的苦しさに比べたらはるかに大きいものです。

そう、はるかに大きいからこそ、その出来事が更に大きな進化のチャンスにもなると言う事です。

ただ、感情を知るための様々な試練で、そこに進化のヒントがあるよと言ってもストイックな意識に無理やり自分を向けることは逆効果になってしまうかも。

むしろ、相手を恨んでしまったり、嫌ってしまったり、そうしたネガティブな意識が湧き上がった時こそ、重要なタイミングなのです。

その感情を見ないようにしたり「そんなことではいけない」と良い人ぶって流してしまっては、何の意味もありません。
「そんな感情を持つ自分だったのだぁ、でもそうかもしれない」
って素直に認め受け入れることが進化の始まりになります。

よく新しい次元になったら、こんな苦しく痛いことなどない時代が待っていると期待してしまうかもしれませんけど、それはどうでしょうか。
確かに3次元の中で繰り広げられ、体験してきた執着や煩悩といった3次元的はキツさは激減するでしょうね。

でも次の次元に行っても、そこでしかできない進化や変容といったカリキュラムはきっとあるはず。

私たちは今「3次元での地球の人生」の完了を目にしようとしているのかもしれません。
今人も社会も自然界さえも今まで溜め込んできたネガティブが、隠すことが出来ずに表層に現れ始めています。

一見「最悪じゃん!」と思うような社会や世界が見えたとしたら、それは地球が今までのネガティブを全て表に出して、陽の目に晒しているのかもしれません。

そう見れば、今目の前にある自分個人の課題だって新しい次元に向かう自分の浄化のためだって分かってきますね。
でも、キツイと思ったとしても、それも大切な感情。

たまにはヘコタレて「やってらんないよ!」って天に向かって悪態吐いちゃいましょう。

でも、この進化(して行くって事)は、3次元を生きるための成長なんかではありません。
新しい次元に向かうための変容なんだって、ご理解くださいませ〜








2017年10月12日 (木)

**函館山の月(函館メモリー2)**

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さて前回の続きです。

今回の函館行きはいつものワークではなくプライベートでしたが、個人的なワークのためでもありました。
前回もお話ししましたが、函館の観音を感じたことがきっかけだったかもしれません。

特にこの観音からの招聘を受けたは訳ではありません。
でも女性神(女性の守護神)としての観音が、函館でのオリオン解放を願っていることを受け、こちらから伺ったと言う事です。

これからの世界の女性性の確立のためだったかもしれません。
でもトラベル気分全開でしたが(笑)

ちなみに恵山(火山)見学前のお昼はイカ刺し山盛りと、津軽海峡の本マグロを頂きました。
それとツブ貝の煮付けと、鱈汁。
特に鱈は恵山産と言う事で、それはもういいダシが出ていて、3杯お代わりしてしまいました~

私、遠方にゆく時、時間さえあれば地の食材を見にスーパーや市場、道の駅に行くのが好きで、外国に行ってもその地域の食文化を根掘り葉掘りの知りたがりで「食」巡りしてしまうのですよね。

さて夕方函館の湯の川温泉郷に戻り夕食。

こちらの画像は、地元の方オススメのお鮨屋さん。雷門と書いて(らいもん)

特に画像にある、カレイ(ババガレイ)の煮付けの美味しい事、気絶しました。
北海道はカレイの宝庫で、知ってはいましたが味付けといい、身のふっくらさといい絶品でした。

もちろん握りも言うことなしでしたよ。
湯の川温泉に行かれたら是非!

夕食の後函館山からの夜景を見にゆきました。

この日は天候も良く、月も景色の中に映り込むナイスな景観です。

こちらは夜景にも写っていた月を写した画像なのですが、その周りにおびただしいほどの綺麗な光の線が飛び交っています。
月の位置から、夜景の光は写らないはずです。

光の筋だけではなく、月そのものも瞬時に移動するような光跡を残しています。
撮影時には一脚を使って手ブレに気をつけて写したので、手振れではないと思います。

おそらく、この青っぽい光の筋は、観音のエネルギーではないかと思うのです。
もともと観音は奈良の頃から青を基調としたレインボーカラーで彩られることもあり、特にこの画像にある「青、青緑」は観音のエネルギーなのだろうと感じました。

ちなみに月を写した「動く月」の別画像も載せておきます。

こちらは帰りの飛行機で見たキレイな光のおまけです。

今回の函館行きは、かねて計画などしていないことで、1週間くらい前に急に決めたことでした。
でもその意味は、自分自身の中の見えない変化を促すに十分な内容だったと確信しました。

その変化は、ここに載せた画像などの物理的なことではなく、それこそ見えない自分自身の中の変化ですので、残念ながらそれをお見せするのはちょっと難しいかなと・・・
ではでは函館リポートはここまでです。








2017年10月11日 (水)

**恵山の幻日(函館メモリー1)**

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先日函館に行ってきました。

1日目は生きている火山で有名な恵山(えさん)に足を伸ばし、噴煙が上がる火口まで行ってきました。
恵山は函館市の中で最も東寄りの地域で、目の前の津軽海峡を流れる津軽暖流のおかげで北海道の中では特に暖かい所だそうです。
この日も気象予報とは裏腹に暑ささえ感じる好天で、長袖では暑い暑い。

上の画像は恵山の景色。
この火山は5万年ほど前に活動を開始し、2500年前に山体崩壊を起こし今の山景が形成された比較的若い火山です。 硫黄を含む火山ガスが噴出していますけど、ガスの噴出口辺りには黄色い硫黄がたくさん結晶していて、まるで箱根の大涌谷のミニ版。まさに「生きている火山」を実感できました。

こちらの画像は恵山の西の裾野に広がる「賽の河原」と言われる場所です。
見るからに、その名を彷彿させる景観ですが、それだけではなく、このあたりに沢山の石仏(特に観音)が祀られています。

右上の画像には紫色の法衣を着た僧侶らしきものが写っていますが、これは地蔵菩薩です。
お衣装が綺麗なところを見ると、日頃地域の方が仏さんに手厚くお世話をしていることが伺えますね。

ちなみに、今回函館空港に降り立った時から根拠もなく「観音」のエネルギーをなんとなく感じていましたが、恵山でそれを確認できました。

まさに函館の地が観音の保護下にあることが分かり、自分自身の高次のガイドの一人が観音ですので、なんとも親近感を感じました。
(ちなみに、毘沙門天もガイドとして付いていてくれる事も分かっています)
慈悲を感じさせるエネルギーと言いますか、この地の柔らかな感覚がここから来ているのだと分かりました。

恵山プチトレッキングの後駐車場に戻ると、空に小さな虹を発見。
思わず動画に収めました。


「幻日」のように見えますが、これほど鮮やかな虹色を呈するのは珍しいと思います。
途中、駐車場で誰かが操作するドローンが垂直上方に横切ります(まるで虫のようで笑えます)

この虹は幻日なのか、それともシップの一部が輝いたのか・・・?
さてどちらでしょうね。

長くなりますので次回に続きます。
次は函館山で夜景を写した時に写り込んだ「不思議画像」をご紹介。

ではでは。









2017年10月10日 (火)

**希望**

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この道の先に希望があると聞いたから進んでいるのではありません

希望を願って今を耐えているのではありません

与えられる希望には興味はありません

教えられる希望にも興味はありません

人の言葉にも希望を見る事はありません

「希望」は「期待」からは生まれません

今を生きる自分こそが「希望」そのもの

希望は自らを信じた時

その身の内に湧き上がるもの

内なる声はそう伝えてきます

自らの中にこそ希望があると信じます

   ●

上の画像は今日の記事とは全く持って関係ありません!(きっぱり)

先日上野の博物館に行った帰りに “じゃぱにーずとらでぃしょなるすいーつぱーらー” でも。
と、言う事で上野の老舗「みはし」さんで頂いた杏クリームあんみつ、クリーム白玉ぜんざい、ザンス。

だからどうした!?

って言われても・・・なんとなく。オマケっす。








2017年10月 8日 (日)

**写る光は何?**

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この画像(左)は、先日の名古屋イベントにご参加いただいた方からお送り頂いたものです。

これを見て思うのですが、カメラの光学現象を利用したエネルギーの可視化は、撮影に当たりその人の周波数や固有のエネルギーによって違いが出るのだとわかります。

人もまたエネルギーの集積体ですので、仮に同じカメラを利用して同じ条件下で可視化エネルギーを撮影できたとしても、全く同じように映るとは限らないかもしれません。

ちなみに右の画像は私が自分のカメラで写したものです。
時間や場所、カメラに違いもありますが、写り方や形態、色彩、の違いがありますが太陽を写した画像に変わりはありません。

この違いは様々なファクターが絡み合って違いが出てくるので、一概にこれが理由とは結論できないのですが、やはり個人やカメラそのものが持つ「個性」に影響されるのだろうな~と思うのです。
(カメラの個性とは機構的な個性ではなく、カメラも魂を持っていて、そして使う人のエネルギーに左右される、と言う事です)

同じ場所で同じように写しても違いが出るのもこう言うことかもしれません。

またこうしたエネルギーの可視化(光体や光の筋、霧状のぼやけ)があった時に
「どんなメッセージを自分に伝えてきてるの?」
と思われることもあるかと思いますが、メッセージは何かと判断する前にエネルギーの可視化という物理現象と見る方が先でしょう。

もしメッセージとして捉えるのであれば、自分の状態(その時の自分の周波数)がこうした光と同期できる周波数帯にあると取ればいいかと思います。
つまり
「写る時と写らない時、写る人と写らない人との違いは、その人の周波数に影響される」
と言うことです。

また写り込んだ光の種類や色から、綺麗とか逆に重たいとか感じたら、その撮影をした時の自分の状態と照らし合わせて判断してみるのもいいかもしれません。

・イイネイイネ、今とても軽く朗らかなんだね。
・あれ?なんか悩みあるのかな?
・うん、その意識状態を保てば、問題解消に繋がるよね。
・今少し重い感じ?

みたいな。。。

 ・

今までの写した光の画像をまとめてHPの方に展示してあります、ご興味がありましたらご覧下さい。
ホームページ(フォトギャラリー)>>









2017年10月 7日 (土)

**困ったちゃんのお花畑理論**

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googl+の方に先ほどの福島沖の地震のコメントを載せてありますのでよろしければどうぞ。
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   ●

さて今回の記事です。

人は今まで長い長い、何度もの人生を、その時々の社会とともに転生を繰り返してきました。

暗黒の封建時代
戦いに明け暮れた戦国時代
多くの不信を抱かせる現代社会

こんな困った社会早くまともな世界に入れ替わればいいんだ、なのでしょうか?
でもちょっと待って。

困った社会に私たちは間違って産み落とされたの?
いえいえ、それは違うでしょう。
自分の強い意志で、自分の希望で「ここ」に生まれてきたことは間違いがありません。

では何のためにそうした困ったちゃんの社会に生まれてきたの?
そこにこそ、幾つもの人生を繰り返し生まれてきた大きな理由が隠されています。

困ったちゃんが蔓延する様々な時代や社会に生まれその不条理の中から、自分自身どのような体験をし、その体験からどんな感情を知ってゆくかが、生まれてきた目的の一つなのだと思うのです。
時には命がけで取り組んだ時代もあったでしょう。

痛い思いをしたからこそ、人の辛さが理解できてくる。
とっても簡単ですね
「我が身つねって人の痛さを知る」
ということです。

人の痛みを理解できるのは、その同じ痛みを知った人にしかできないとても簡単なこと。
道徳教育の本から「慈愛」って項目をいくら読み漁っても、一回の体験に勝るものはありませんね。

だとすると困ったちゃん時代であればあるほど、私たちはそこから多くの有用な体験ができるということになります。

社会が悪いから自分は辛いのだと思ってしまうと、せっかく体験しにきた意味が薄くなってしまいますね。
辛く困ったと感じた時こそ自分の大きな進化のタイミングに差し掛かった時なのかもしれません。

自分がその辛さを得たとき、なんで自分はそれを辛いと感じるのか?
辛いとは一体どういう感情で、どこからそれが湧き上がってくるの?

そして辛いということが自分の中にあるどの部分に反応して起こってくるのかを、しっかり見つめてゆくと、その辛さの出所にたどり着くことだ出来てきます。

そこに至ったらしめたもの。
その時点で、この人生を選んだ大きな意味が輝きだします。

また、社会や自分を取り巻く様々な「困ったちゃん」に触れた時、こんなことを自分に言い聞かせていませんか?

「そこに怒りを感じたり、恐怖したりしてはいけません」
「辛い気持ちを抑え横に置き、常に正しく清い心で朗らかに生き “ねば” なりません」

一見前向きで力強さの様なものを感じるかもしれませんが
「それをなかったこと、見ない様にすること、避けてしまうこと」
なので、せっかく困ったちゃんが気がついてねと言っている本質から外れてゆくことになります。

「正しい事」の判断、ルールは時にはその時代時代、宗教観やイデオロギー、社会の思惑、国家のあり様によって簡単に変化してしまいますので、社会的な善悪の判断はとても微妙ですね。

でも人の心に灯る「感情」には洋の東西も時代背景も超越して、誰にでも通用する心ある言葉です。

痛みや辛さ、切なさや苦しみ、恐れや怒り。
この感情をしっか味わってゆくことで自分の中の「感情というボキャブラリー」を増やしてゆくことに繋がってゆきます。

地球外の高い次元の天体に暮らす人々や、この地球に同時に生きている「高次元の先輩たち」にはもはや、私たちが生きてきた3次元の「ネガティブ感情」は存在しないでしょう。

そうなんです、この地球という厄介で不可思議な地球だからこそ体験できる困ったちゃんのいろいろ。
その体験を願った私たち自身「ドMの存在」かもしれませんね (^_^;)
でもそこで手にできる大いなる感情こそが他の次元では得ることの出来ない、それはもう珠玉の「体験」なのだと思うのです。

この社会を選んだのは紛れもなく自分自身なのだという事さえ思い出せれば、生まれてきた大きな意味にたどり着けるって事なんですね。

では「今まで社会に対して向けてきた意識、今後どう向ければ?」

それは、今までの「困ったちゃん」が退場して、新しい「正しいちゃん」に入れ替わることを思い描くのではなく、今までの困ったちゃん社会が自分の意思で変化し、進化してゆくイメージを抱くほうがより高次的意識でしょう。

私たち自身だって、表に現れない困ったちゃんを抱えています。
そしてその困ったちゃんを受け入れ、そしてその自分が変化し進化してゆく過程を体験することが高次を目指すという事なのかも・・

社会もまた生き物。
同じように苦しみながらも高次元を目指しているはずです。
今、高次を目指す人も社会も必死になって進化してゆく過程にあると感じています(置いて行かれないようにしないとね!)

そして自分の観念と意識が作り上げているこの仮想現実社会を、その感情一つで変化させて行けることを信じて行こうと思います。

それって甘ちゃんの、能天気なお花畑理論ですか?










2017年10月 5日 (木)

**これな〜に?2017/10/05**

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(画像はメインブログの方に掲載しています)

今晩は中秋の名月ですね。
屋上に出てみたら、雲がかかったり晴れたりで、しっかり撮影できました。

で、こちらなんですけど、雲がかかってきて周りの雲に虹色のスペクトルが現れたので、引きで撮影してみました。

そしたら「これな〜に?」
って言う「何か」が写っていましたです。

何か意思を持つ生命体、もしくは意識体(エネルギー体)の飛行物じゃないかと・・
メッセージとかあまり感じられませんでしたので、飛行中に偶然に写ったのだと思います。









2017年10月 4日 (水)

**切なさの向こうには**

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先日の記事「あの日にかえりたい?」でお送りした小野リサの切ないボサノバは、傷んだ心を癒します。

「夕暮れの海」
「真夜中の首都高速」
「一人暮らす部屋から聞こえる、遠い車の音」

そんな切なくて切なくて、その哀愁に安らぎを見る事があります。

この人生は愛するものと寄り添い共に生きながらも、魂は一人で進む覚悟を持ってここに生まれてきました。

だからこその切なさなのかもしれません。
そしてだからこそ「人の温かみを知る」なのかもしれません。

切ない曲は、澄み切った湖の深みを思い起こさせます。
そして、その曲に浸る事で、傷が深く癒される、そう感じるのです。

切なさって究極の癒しって、そう思うって私だけ?

   ・

最後に、切ないだけでは・・
って思う方へ












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